生徒(せいと)に「明日(あした)、何(なに)をしますか。」ときいたとき、よく「知りません(しりません)。」と答え(こたえ)られ、とても気(き)になった。
日本人(にほんじん)だったら、まず、「さぁ、まだわかりません。」とか、「まだ決めて(きめて)ません。」と答えるだろう。
こういう質問(しつもん)をしたときに、「知りません。」と答えられると、少し(すこし)冷たい(つめたい)感じ(かんじ)がするのはどうしてだろうか。
「知りません」と「わかりません」の使い方(つかいかた)には、もともと違い(ちがい)がある。
「知りません」ということばは、「そのことについて、情報(じょうほう)をもっていません。」という意味(いみ)が強い(つよい)から、例えば(たとえば)、次(つぎ)のようによく使う。
1.名前(なまえ)は知っていますが、電話番号(でんわばんごう)は知りません。
2.A:「これが終わったら(おわったら)、みんなでどこへ行く(いく)か知ってる。」
B:「いや、知らない。」←「知っていない。」と答えるのは間違い(まちがい)。
このように、答えを考え(かんがえ)なくてもいいような質問(しつもん)に使うことが多い(おおい)。
これに対して(たいして)、「わかりません」は、考えても答えが見つからないときに使うことに多い。そして、「知りません」の意味(いみ)で使うこともできる。
1.彼(かれ)が来る(くる)かどうか、まだわかりません。
2.答え(こたえ)がわかりません。
3.ポルトガル語(ご)がわかりません。
4.A:「Cさんの電話番号わかる。」
B:「今(いま)はわからない。」
つまり、先(さき)ほどの質問「明日(あした)、何(なに)をしますか。」で、「知りません(しりません)。」と答えてしまうと、考えたり、答えを見つけようともしないで、答えたように見えるので、もしかしたら冷たく感じる(かんじる)のかもしれない。
ポルトガル語では、「知りません」も「わかりません」も同じ(おなじ)単語(たんご)を使うので、その違いに気(き)づかないのだろう。
使い方はとてもにているが、ちょっとしたニュアンスの違いで、相手(あいて)にあたえる印象(いんしょう)も違ってくるので、気をつけなくてはいけない。
ページビューの合計
2012年10月26日金曜日
2012年10月14日日曜日
習字(しゅうじ)の授業(じゅぎょう)- 子ども編(へん)
昨日(きのう)、子どもの授業(じゅぎょう)で習字(しゅうじ)をした。
休日(きゅうじつ)にはさまれての授業だったので、来た(きた)のはたった4人(にん)。
サンパウロとちがい、ここでは、筆(ふで)や墨(すみ)、半紙(はんし)を買う(かう)ことができない。だから、道具(どうぐ)は全て(すべて)私(わたし)のを家(いえ)からもっていった。
2時間(じかん)の授業のうち、はじめの30分(ぷん)は、新しい(あたらしい)漢字(かんじ)を教え(おしえ)、残り(のこり)の1時間半(じかんはん)を習字につかった。
まずは、筆の持ち方(もちかた)と姿勢(しせい)から。
ブラジルの学校(がっこう)は、鉛筆(えんぴつ)の持ち方や姿勢を注意(ちゅうい)しない(と思う)。だから、大人(おとな)でもすごい格好(かっこう)で字(じ)を書く(かく)人(ひと)がたくさんいる。
私のクラスの子どもたちは、上手(じょうず)に筆を持つことができた。姿勢も正しく(ただしく)して、筆の使い(つかい)方の練習(れんしゅう)。
半紙(はんし)もあまっていないので、まずは四分の一(よんぶんのいち)に切った(きった)新聞(しんぶん)に丸(まる)を書いたり、「一(いち)」を書いて練習した。
ここで何度(なんど)か習字の授業をしているうちに、ひらがなは曲線(きょくせん)が多い(おおい)ので、どうやら初めて(はじめて)書く人にはひらがなよりもカタカナや簡単な(かんたんな)漢字のほうが書きやすいということに気づいた(きづいた)。
子どもたちは去年(きょねん)からずっと漢字(かんじ)を勉強(べんきょう)しているし、ちょうどいい機会(きかい)なので、一番(いちばん)好きな(すきな)漢字を書いてもらった。
みんな真剣(しんけん)。せっかく、払い(はらい)や止め(とめ)ができるようになってきたのに、あっという間(ま)に時間(じかん)をオーバーしてしまった。でも、みんな楽しんで(たのしんで)くれたみたいでよかった。
休日(きゅうじつ)にはさまれての授業だったので、来た(きた)のはたった4人(にん)。
サンパウロとちがい、ここでは、筆(ふで)や墨(すみ)、半紙(はんし)を買う(かう)ことができない。だから、道具(どうぐ)は全て(すべて)私(わたし)のを家(いえ)からもっていった。
2時間(じかん)の授業のうち、はじめの30分(ぷん)は、新しい(あたらしい)漢字(かんじ)を教え(おしえ)、残り(のこり)の1時間半(じかんはん)を習字につかった。
まずは、筆の持ち方(もちかた)と姿勢(しせい)から。
ブラジルの学校(がっこう)は、鉛筆(えんぴつ)の持ち方や姿勢を注意(ちゅうい)しない(と思う)。だから、大人(おとな)でもすごい格好(かっこう)で字(じ)を書く(かく)人(ひと)がたくさんいる。
私のクラスの子どもたちは、上手(じょうず)に筆を持つことができた。姿勢も正しく(ただしく)して、筆の使い(つかい)方の練習(れんしゅう)。
半紙(はんし)もあまっていないので、まずは四分の一(よんぶんのいち)に切った(きった)新聞(しんぶん)に丸(まる)を書いたり、「一(いち)」を書いて練習した。
ここで何度(なんど)か習字の授業をしているうちに、ひらがなは曲線(きょくせん)が多い(おおい)ので、どうやら初めて(はじめて)書く人にはひらがなよりもカタカナや簡単な(かんたんな)漢字のほうが書きやすいということに気づいた(きづいた)。
子どもたちは去年(きょねん)からずっと漢字(かんじ)を勉強(べんきょう)しているし、ちょうどいい機会(きかい)なので、一番(いちばん)好きな(すきな)漢字を書いてもらった。
みんな真剣(しんけん)。せっかく、払い(はらい)や止め(とめ)ができるようになってきたのに、あっという間(ま)に時間(じかん)をオーバーしてしまった。でも、みんな楽しんで(たのしんで)くれたみたいでよかった。
2012年9月24日月曜日
マナウス日本語弁論(にほんごべんろん)・お話大会(おはなしたいかい)2012
22日に16回目(かいめ)のマナウス日本語弁論・お話大会(にほんごべんろん・おはなしたいかい)があった。
ここでの弁論大会は全国(ぜんこく)大会にあわせて、16歳(さい)以上(いじょう)の人が参加(さんか)、それ以下(いか)の子(こ)はお話大会に参加する。
まずは、弁論大会から。今年は19人が参加。もう少し(すこし)参加者(しゃ)をふやしたいけれど、なかなか時間(じかん)がなかったりで、難しい(むずかしい)。
私は今年(ことし)、事務所(じむしょ)で手伝い(てつだい)をする係(かかり)だったので、あまり会場(かいじょう)へ見に(みに)行く(いく)ことができなかったが、初心者(しょしんしゃ)の参加者たちが一生懸命(いっしょうけんめい)長い(ながい)文(ぶん)をおぼえ、発表(はっぴょう)しているのを見て、よくがんばっているなと思った(おもった)。
生徒の作文(さくぶん)づくりは先生(せんせい)が手伝うことになっている。11月の全国大会に出場(しゅつじょう)して、さらにいい結果(けっか)を残す(のこす)ためには、遅くても(おそくても)7月(がつ)くらいから練習(れんしゅう)をはじめて、9月の地区(ちく)大会で勝ち(かち)ぬかなくてはいけない。今年の全国大会はマナウスで行われる(おこなわれる)。
続いて(つづいて)、お話大会。こちらは18人が参加。こちらも年々(ねんねん)人数(にんずう)が減って(へって)きている。原稿(げんこう)を見ないで、みんながんばっていた。
ちなみに、私のクラスの子どもたちを誘った(さそった)ところ、今年はほぼ全員(ぜんいん)男の子のクラスなので、はずかしがって参加したくないとのことだった…。失敗(しっぱい)したな。無理(むり)にでも参加させるべきだった…。
昔(むかし)は今の倍(ばい)くらい子どもの参加があった。
きっかけ作りも先生のお役目(やくめ)。チャレンジする前(まえ)はいやだったけれど、してみたらとってもいい経験(けいけん)になった!ということもよくあるはず。来年から子どもたちにもっと意欲(いよく)をもたせるいい方法を考えないと…。
ここでの弁論大会は全国(ぜんこく)大会にあわせて、16歳(さい)以上(いじょう)の人が参加(さんか)、それ以下(いか)の子(こ)はお話大会に参加する。
まずは、弁論大会から。今年は19人が参加。もう少し(すこし)参加者(しゃ)をふやしたいけれど、なかなか時間(じかん)がなかったりで、難しい(むずかしい)。
![]() |
弁論大会 |
生徒の作文(さくぶん)づくりは先生(せんせい)が手伝うことになっている。11月の全国大会に出場(しゅつじょう)して、さらにいい結果(けっか)を残す(のこす)ためには、遅くても(おそくても)7月(がつ)くらいから練習(れんしゅう)をはじめて、9月の地区(ちく)大会で勝ち(かち)ぬかなくてはいけない。今年の全国大会はマナウスで行われる(おこなわれる)。
続いて(つづいて)、お話大会。こちらは18人が参加。こちらも年々(ねんねん)人数(にんずう)が減って(へって)きている。原稿(げんこう)を見ないで、みんながんばっていた。
![]() |
お話大会 |
昔(むかし)は今の倍(ばい)くらい子どもの参加があった。
きっかけ作りも先生のお役目(やくめ)。チャレンジする前(まえ)はいやだったけれど、してみたらとってもいい経験(けいけん)になった!ということもよくあるはず。来年から子どもたちにもっと意欲(いよく)をもたせるいい方法を考えないと…。
![]() |
事務所でも集計(しゅうけい)や表彰状(ひょうしょうじょう)づくりに大忙し(おおいそがし) |
2012年9月5日水曜日
日系人(にっけいじん)と非日系人(ひにっけいじん)の先生(せんせい)
ブログをはじめてもうすぐ1年(ねん)。この1年で、日伯(にっぱく)の先生(せんせい)たちもがんばっているなーと思う(おもう)ことがよくある。というわけで、今日(きょう)は先生の話(はなし)。
ここ、マナウスにも色々な(いろいろな)日本語(にほんご)の先生がいる。
日系人(にっけいじん)の先生、非日系人(ひにっけいじん)のブラジル人の先生、日本人だが子どものときに移住(いじゅう)してきた先生、大人(おとな)になってから移住してきた日本人の先生などなど。
私がここにはじめてきた12年前(まえ)は、たしか日本人の先生と3人と、日系人の先生が1人、それにボランティアで領事館(りょうじかん)の領事夫人(りょうじふじん)が授業(じゅぎょう)を担当(たんとう)していた。非日系人の先生がいなかったのは、日本語を話す(はなす)ことはできても、教える(おしえる)レベルまでたどりついた人が少なかった(すくなかった)からだと思う(おもう)。学校(がっこう)も今(いま)にくらべるとまだ小さく(ちいさく)、こじんまりとしていた。
先輩(せんぱい)の先生方(がた)に色々なことを教えていただきながら、半年(はんとし)くらいすぎたころ、急に(きゅうに)人手(ひとで)がたりなくなり、先生を探す(さがす)ことになった。
もちろん「探す」ときまってから、あたりまえのごとく、事務所(じむしょ)の人も日系人を探しはじめたが、なかなか適当な(てきとう)人がみつからなかった。
しばらくたったころ、ちょうど私と同じく(おなじく)青年(せいねん)ボランティアで事務員(じむいん)をしていた中野(なかの)さんが、「ヒカルドはどうですか?」と事務の中村(なかむら)さんにきいた。きけば、ヒカルドは日伯の卒業生(そつぎょうせい)で、日本語が大好き(だいすき)な生徒(せいと)だったらしい。
迷って(まよって)いる時間(じかん)もなかったので、中野さんにたのんでヒカルドと電話(でんわ)で話してみた。話をして、私はすぐに「できるかも」と思った。電話で話したにもかかわらず、彼(かれ)の発音(はつおん)やイントネーションはとてもきれいだった。
すぐにおねがいして、ヒカルドが私の知る(しる)かぎり日伯初(はつ)の非日系人の先生になった。
当時は日系人の生徒がとても多かった(おおかった)。非日系人のヒカルドには「日系人ではない」というだけで、ハンディがあった。多くの生徒や生徒の両親(りょうしん)が「ガイコクジン」の先生というだけで、「発音やイントネーションが間違っている(まちがっている)のではないか」、「間違ったことばをおしえるのではないか」と心配(しんぱい)し、その分(ぶん)ヒカルドを見る(みる)目(め)もきびしかった。
でも、ヒカルドはやめることなく日本語を教え続けて(つづけて)、今年(ことし)で12年になる。日本で半年間(はんとしかん)研修(けんしゅう)も受けて(うけて)きた。私も助け(たすけ)、助けられて、いっしょにすごし、今では経験(けいけん)もつんだので自信(じしん)を持って授業をしていると思う。
もちろん、ここまでたどりつくには色々なことがあったけれど。
当時(とうじ)、悩み(なやみ)があるのは非日系人の先生だけかと思ったが、私の生徒は日系人であることで、これまた悩みをもっていた。「日本人の顔(かお)をしているのに、どうして日本語が通じない(つうじない)んだ。」と会社(かいしゃ)の上司(じょうし)からいわれたとか、「日系人だから日本語を話すと思っていたのに、話せないからがっかりした。」と言われたという生徒が何人も(なんにんも)いた。
日系人の先生は「日本人の血(ち)がまざっている」というだけで、生徒から色々な情報(じょうほう)を求め(もとめ)られる。また、先生も家庭で使っていることばが、他(ほか)の人にも通じるのか、家族の中だけで通じることばなのかを知らなくては(しらなくては)いけない。「家族とつかっていたことばを生徒に教えてみたら、他の人には通じませんでしたといわれた…。」ということもある。そういうことばを見極める(みきわめる)のも、実は(じつは)とてもむずかしい。
色々な面(めん)で、非日系人、日系人、それぞれの悩みがあり、それは今もあまり変わって(かわって)いないのかもしれない。でも、最近(さいきん)は前(まえ)ほどそれが感じられ(かんじられ)なくなった。
非日系人の先生はそのハンディにまけないくらい個性的(こせいてき)で楽しい(たのしい)授業(じゅぎょう)で生徒にやる気(き)をもたせているし、生徒もまた自分の興味(きょうみ)があることを楽しみながら勉強(べんきょう)しているようす。
日系人の先生も非日系人の先生のパワーにまけないように授業を工夫(くふう)しているし、日系人であることでブラジル人であり、日本人であることをいかし、自信をもって授業しているようにみえる。
数日(すうじつ)まえ、非日系人の先生が、また上級(じょうきゅう)のクラスを担当(たんとう)するようになったのをしって、とてもうれしくなった。
生徒がもつ先入観(せんにゅうかん)をかえることはむずかしいけれど、そんな生徒にも文句(もんく)を言わせない授業をすることに、日系人も非日系人も関係(かんけい)ないと思う。
「日本人だから」といって、みんな教え方(かた)をしっているわけではないし、教え方がかならずしも「うまい」ときまっているわけでもない。
私も自分が日本人だと思うことに甘んじ(あまんじ)ないで、今、努力(どりょく)をしている先生たちからも色々なことをまなばなくては。
ここ、マナウスにも色々な(いろいろな)日本語(にほんご)の先生がいる。
日系人(にっけいじん)の先生、非日系人(ひにっけいじん)のブラジル人の先生、日本人だが子どものときに移住(いじゅう)してきた先生、大人(おとな)になってから移住してきた日本人の先生などなど。
私がここにはじめてきた12年前(まえ)は、たしか日本人の先生と3人と、日系人の先生が1人、それにボランティアで領事館(りょうじかん)の領事夫人(りょうじふじん)が授業(じゅぎょう)を担当(たんとう)していた。非日系人の先生がいなかったのは、日本語を話す(はなす)ことはできても、教える(おしえる)レベルまでたどりついた人が少なかった(すくなかった)からだと思う(おもう)。学校(がっこう)も今(いま)にくらべるとまだ小さく(ちいさく)、こじんまりとしていた。
先輩(せんぱい)の先生方(がた)に色々なことを教えていただきながら、半年(はんとし)くらいすぎたころ、急に(きゅうに)人手(ひとで)がたりなくなり、先生を探す(さがす)ことになった。
もちろん「探す」ときまってから、あたりまえのごとく、事務所(じむしょ)の人も日系人を探しはじめたが、なかなか適当な(てきとう)人がみつからなかった。
しばらくたったころ、ちょうど私と同じく(おなじく)青年(せいねん)ボランティアで事務員(じむいん)をしていた中野(なかの)さんが、「ヒカルドはどうですか?」と事務の中村(なかむら)さんにきいた。きけば、ヒカルドは日伯の卒業生(そつぎょうせい)で、日本語が大好き(だいすき)な生徒(せいと)だったらしい。
迷って(まよって)いる時間(じかん)もなかったので、中野さんにたのんでヒカルドと電話(でんわ)で話してみた。話をして、私はすぐに「できるかも」と思った。電話で話したにもかかわらず、彼(かれ)の発音(はつおん)やイントネーションはとてもきれいだった。
すぐにおねがいして、ヒカルドが私の知る(しる)かぎり日伯初(はつ)の非日系人の先生になった。
当時は日系人の生徒がとても多かった(おおかった)。非日系人のヒカルドには「日系人ではない」というだけで、ハンディがあった。多くの生徒や生徒の両親(りょうしん)が「ガイコクジン」の先生というだけで、「発音やイントネーションが間違っている(まちがっている)のではないか」、「間違ったことばをおしえるのではないか」と心配(しんぱい)し、その分(ぶん)ヒカルドを見る(みる)目(め)もきびしかった。
でも、ヒカルドはやめることなく日本語を教え続けて(つづけて)、今年(ことし)で12年になる。日本で半年間(はんとしかん)研修(けんしゅう)も受けて(うけて)きた。私も助け(たすけ)、助けられて、いっしょにすごし、今では経験(けいけん)もつんだので自信(じしん)を持って授業をしていると思う。
もちろん、ここまでたどりつくには色々なことがあったけれど。
当時(とうじ)、悩み(なやみ)があるのは非日系人の先生だけかと思ったが、私の生徒は日系人であることで、これまた悩みをもっていた。「日本人の顔(かお)をしているのに、どうして日本語が通じない(つうじない)んだ。」と会社(かいしゃ)の上司(じょうし)からいわれたとか、「日系人だから日本語を話すと思っていたのに、話せないからがっかりした。」と言われたという生徒が何人も(なんにんも)いた。
日系人の先生は「日本人の血(ち)がまざっている」というだけで、生徒から色々な情報(じょうほう)を求め(もとめ)られる。また、先生も家庭で使っていることばが、他(ほか)の人にも通じるのか、家族の中だけで通じることばなのかを知らなくては(しらなくては)いけない。「家族とつかっていたことばを生徒に教えてみたら、他の人には通じませんでしたといわれた…。」ということもある。そういうことばを見極める(みきわめる)のも、実は(じつは)とてもむずかしい。
色々な面(めん)で、非日系人、日系人、それぞれの悩みがあり、それは今もあまり変わって(かわって)いないのかもしれない。でも、最近(さいきん)は前(まえ)ほどそれが感じられ(かんじられ)なくなった。
非日系人の先生はそのハンディにまけないくらい個性的(こせいてき)で楽しい(たのしい)授業(じゅぎょう)で生徒にやる気(き)をもたせているし、生徒もまた自分の興味(きょうみ)があることを楽しみながら勉強(べんきょう)しているようす。
日系人の先生も非日系人の先生のパワーにまけないように授業を工夫(くふう)しているし、日系人であることでブラジル人であり、日本人であることをいかし、自信をもって授業しているようにみえる。
数日(すうじつ)まえ、非日系人の先生が、また上級(じょうきゅう)のクラスを担当(たんとう)するようになったのをしって、とてもうれしくなった。
生徒がもつ先入観(せんにゅうかん)をかえることはむずかしいけれど、そんな生徒にも文句(もんく)を言わせない授業をすることに、日系人も非日系人も関係(かんけい)ないと思う。
「日本人だから」といって、みんな教え方(かた)をしっているわけではないし、教え方がかならずしも「うまい」ときまっているわけでもない。
私も自分が日本人だと思うことに甘んじ(あまんじ)ないで、今、努力(どりょく)をしている先生たちからも色々なことをまなばなくては。
2012年8月22日水曜日
文法(ぶんぽう)の大切さ(たいせつさ)
日本語能力検定試験(にほんごのうりょくけんていしけん)の申込期間(もうしこみきかん)がもう少し(すこし)で終わる(おわる)。
よくきかれるのが、この試験に合格(ごうかく)すると何(なん)のメリットがあるか。
「仕事(しごと)がみつかりますか。」とか、「日本へ行け(いけ)ますか。」ときいてくる人までいる。
残念(ざんねん)ながら、それはご本人(ほんにん)次第(しだい)。日本では大学(だいがく)に留学(りゅうがく)するため、または仕事をみつけるための資格(しかく)として使う(つかう)ことができるが、ここではまだそれを利用(りよう)してくれる会社(かいしゃ)がほとんどない。
でも、実(じつ)は試験に合格するためにどれくらいの努力(どりょく)が必要(ひつよう)か、そしてその努力をすることで何(なに)が得られる(えられる)かが、わかっていない。
私もここに住み(すみ)はじめて10年以上(いじょう)経った(たった)。今(いま)では生活(せいかつ)するためだけでなく、仕事でもポルトガル語が必要(ひつよう)なのでポルトガル語を使う(つかう)。会話(かいわ)をする面(めん)ではまず不自由(ふじゆう)を感じる(かんじる)ことはなくなった。
友だち(ともだち)と話(はなし)をするとき、クレームをいうとき、仕事で話すとき、間違え(まちがえ)はあるだろうが、とりあえず相手(あいて)はわかってくれる。ところが、自分(じぶん)のポルトガルの中途半端(ちゅうとはんぱ)さを痛い(いたい)くらい感じる(かんじる)ときがある。
それは、文書(ぶんしょ)を書く(かく)とき。
私はポルトガル語の文法(ぶんぽう)をきちんと勉強(べんきょう)したことがない。ここに来て(きて)はじめの2年はほとんど英語(えいご)を使ってすごし、ポルトガル語を覚え(おぼえ)なかった。授業(じゅぎょう)はほとんど直説法(ちょくせつほう)ですごした。親切な(しんせつな)日本人の方(かた)も多く(おおく)、困った(こまった)ときはたすけてもらい、迷惑(めいわく)をかけながらも青年(せいねん)ボランティアの任期中(にんきちゅう)は何(なん)とかすごせた。
ところが仕事で文書を書くことがふえた今、自分のポルトガル語の作文(さくぶん)能力の弱さ(よわさ)に泣き(なき)たくなる。
ポルトガル語にも日本語とはちがうにしろ、尊敬表現(そんけいひょうげん)がある。友だちに出すような手紙(てがみ)であれば書けるが、公(おおやけ)の機関(きかん)に出す文書の場合(ばあい)、書いても、それが果たして(はたして)文法的(ぶんぽうてき)にあっているかどうかが自分ではわからず、だれかにチェックしてもらうまで出すことができない。
私の場合、英語の能力も決して(けっして)優れて(すぐれて)いるとは思わない(おもわない)が、こういう文は英語で書くほうが簡単(かんたん)だと思うことがよくある。それは英語の文法がポルトガル語の文法にくらべてシンプルだということもあるが、それよりも何よりも会話とともに0から文法を勉強したことが大きい(おおきい)。
日本語を教える(おしえる)とき、多く(おおく)の生徒ははまず会話が上手(じょうず)になりたいという。たのしく会話をしたかったり、仕事で必要だからだったり、興味(きょうみ)があることを楽しむためだったり、それは色々な(いろいろな)理由(りゆう)からだと思う。もちろん、私も会話が上手になることに大賛成(だいさんせい)。でも、たいていの生徒は会話が上手になると、もっともっと日本語をみがこうという努力をしなくなる。
そして、会話だけに力(ちから)をいれていたら、生徒たちもいつか限界(げんかい)を感じるときがくる。文を書くことはあまりないかもしれないが、話をしていても、正しく(ただしく)話せているか、自分のいっていることが相手に間違いなくつたわっているか自信(じしん)をもつことができない。
コミュニケーションをとれるようになるのが大事(だいじ)だとは思うが、日本語を覚えて上手に話せるようになりたいと思っている人には会話ばかりではなく、文法もきちんと勉強してもらいたいと思う。
日本語能力試験は文法をきちんと勉強した人、あるいは日本人のように自然(しぜん)と覚えた人でなければ答える(こたえる)ことができない。それぞれのレベルの合格を目指して(めざして)勉強すること、その過程(かてい)がとても大事であって、結果(けっか)がすべてではないはず。
生徒にはいつも「自分のレベルに満足(まんぞく)してしまわないで向上心(こうじょうしん)をもっていてほしい」と思う。そして能力試験は「どれくらい自分のレベルをのばすことができたか。」を知る(しる)のにとてもいい機会(きかい)なので、できるだけ多くの人にうけてもらいたい。
友人のヒカルドから教えてもらったポルトガル語文法がのった本でただ今一から勉強中。知らずに使っていた目からウロコの文法もあり、かなりよい。↓
http://www.hmv.co.jp/artist_%E5%85%BC%E5%AE%89%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E5%85%B8%E5%AD%90_200000000282281/
よくきかれるのが、この試験に合格(ごうかく)すると何(なん)のメリットがあるか。
「仕事(しごと)がみつかりますか。」とか、「日本へ行け(いけ)ますか。」ときいてくる人までいる。
残念(ざんねん)ながら、それはご本人(ほんにん)次第(しだい)。日本では大学(だいがく)に留学(りゅうがく)するため、または仕事をみつけるための資格(しかく)として使う(つかう)ことができるが、ここではまだそれを利用(りよう)してくれる会社(かいしゃ)がほとんどない。
でも、実(じつ)は試験に合格するためにどれくらいの努力(どりょく)が必要(ひつよう)か、そしてその努力をすることで何(なに)が得られる(えられる)かが、わかっていない。
私もここに住み(すみ)はじめて10年以上(いじょう)経った(たった)。今(いま)では生活(せいかつ)するためだけでなく、仕事でもポルトガル語が必要(ひつよう)なのでポルトガル語を使う(つかう)。会話(かいわ)をする面(めん)ではまず不自由(ふじゆう)を感じる(かんじる)ことはなくなった。
友だち(ともだち)と話(はなし)をするとき、クレームをいうとき、仕事で話すとき、間違え(まちがえ)はあるだろうが、とりあえず相手(あいて)はわかってくれる。ところが、自分(じぶん)のポルトガルの中途半端(ちゅうとはんぱ)さを痛い(いたい)くらい感じる(かんじる)ときがある。
それは、文書(ぶんしょ)を書く(かく)とき。
私はポルトガル語の文法(ぶんぽう)をきちんと勉強(べんきょう)したことがない。ここに来て(きて)はじめの2年はほとんど英語(えいご)を使ってすごし、ポルトガル語を覚え(おぼえ)なかった。授業(じゅぎょう)はほとんど直説法(ちょくせつほう)ですごした。親切な(しんせつな)日本人の方(かた)も多く(おおく)、困った(こまった)ときはたすけてもらい、迷惑(めいわく)をかけながらも青年(せいねん)ボランティアの任期中(にんきちゅう)は何(なん)とかすごせた。
ところが仕事で文書を書くことがふえた今、自分のポルトガル語の作文(さくぶん)能力の弱さ(よわさ)に泣き(なき)たくなる。
ポルトガル語にも日本語とはちがうにしろ、尊敬表現(そんけいひょうげん)がある。友だちに出すような手紙(てがみ)であれば書けるが、公(おおやけ)の機関(きかん)に出す文書の場合(ばあい)、書いても、それが果たして(はたして)文法的(ぶんぽうてき)にあっているかどうかが自分ではわからず、だれかにチェックしてもらうまで出すことができない。
私の場合、英語の能力も決して(けっして)優れて(すぐれて)いるとは思わない(おもわない)が、こういう文は英語で書くほうが簡単(かんたん)だと思うことがよくある。それは英語の文法がポルトガル語の文法にくらべてシンプルだということもあるが、それよりも何よりも会話とともに0から文法を勉強したことが大きい(おおきい)。
日本語を教える(おしえる)とき、多く(おおく)の生徒ははまず会話が上手(じょうず)になりたいという。たのしく会話をしたかったり、仕事で必要だからだったり、興味(きょうみ)があることを楽しむためだったり、それは色々な(いろいろな)理由(りゆう)からだと思う。もちろん、私も会話が上手になることに大賛成(だいさんせい)。でも、たいていの生徒は会話が上手になると、もっともっと日本語をみがこうという努力をしなくなる。
そして、会話だけに力(ちから)をいれていたら、生徒たちもいつか限界(げんかい)を感じるときがくる。文を書くことはあまりないかもしれないが、話をしていても、正しく(ただしく)話せているか、自分のいっていることが相手に間違いなくつたわっているか自信(じしん)をもつことができない。
コミュニケーションをとれるようになるのが大事(だいじ)だとは思うが、日本語を覚えて上手に話せるようになりたいと思っている人には会話ばかりではなく、文法もきちんと勉強してもらいたいと思う。
日本語能力試験は文法をきちんと勉強した人、あるいは日本人のように自然(しぜん)と覚えた人でなければ答える(こたえる)ことができない。それぞれのレベルの合格を目指して(めざして)勉強すること、その過程(かてい)がとても大事であって、結果(けっか)がすべてではないはず。
生徒にはいつも「自分のレベルに満足(まんぞく)してしまわないで向上心(こうじょうしん)をもっていてほしい」と思う。そして能力試験は「どれくらい自分のレベルをのばすことができたか。」を知る(しる)のにとてもいい機会(きかい)なので、できるだけ多くの人にうけてもらいたい。
友人のヒカルドから教えてもらったポルトガル語文法がのった本でただ今一から勉強中。知らずに使っていた目からウロコの文法もあり、かなりよい。↓
http://www.hmv.co.jp/artist_%E5%85%BC%E5%AE%89%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E5%85%B8%E5%AD%90_200000000282281/
2012年8月16日木曜日
ブラジルの誕生会(たんじょうかい)
今日(きょう)はこちらの誕生日(たんじょうび)の祝い方(いわいかた)について。
日本(にほん)で友達(ともだち)に「~さん、あした誕生日なの?」ときかれたら、まず何も(なにも)考えず(かんがえず)にイエスかノーかを答える(こたえる)と思う(おもう)。
なぜかというと、自分(じぶん)の誕生日だからパーティーをどうするか、ケーキをどうするかなんて考えなくてもいいし、自然な(しぜんな)会話(かいわ)が成り立つ(なりたつ)から。
ところが、ここマナウス(どうやらブラジル全国(ぜんこく))では誕生日の本人(ほんにん)がケーキを持って(もって)ほかの人(ひと)にもてなすのが普通(ふつう)だったりする。
というわけで、「あしたは私(わたし)の誕生日。」とブラジル人にいうと、「おめでとう。じゃぁ、あしたはケーキが食べられる(たべられる)んだ。」といった会話(かいわ)になる場合(ばあい)が多い(おおい)。
もちろん授業(じゅぎょう)でも同じ(おなじ)。
生徒(せいと)がクラスの友達にむかって、「来週(らいしゅう)はぼくの誕生日だから、プレゼントよろしくー。」なんてきまって言うと(いうと)、「じゃぁ、ケーキがあるんだね。」という答えになる。
日本では誕生会をするとなると、もちろん本人がケーキやごちそうを準備(じゅんび)して、友だちなどをよぶが、友達がしてくれることもある。
ここの子どもがする誕生会は色々な(いろいろな)かたちのものがあるが、日本では考えられないほど豪華な(ごうかな)誕生会を普通(ふつう)にしてしまう家庭(かてい)も少なく(すくなく)ない。
特に(とくに)女の子(おんなのこ)の15歳の誕生日は大人(おとな)への仲間入り(なかまいり)できる年令(ねんれい)として、お父さん(おとうさん)と一緒(いっしょ)にワルツを踊り(おどり)社交(しゃこう)デビューするという習慣(しゅうかん)があるので、パーティーが結婚披露宴(けっこうひろうえん)なみのことも多い。
中(なか)にはそういうパーティーをしないで、その分の費用(ひよう)を旅行(りょこう)にあてる人もいる。
いずれにせよ、立派(りっぱ)な誕生会をしようと思う(おもう)と、結構(けっこう)大変(たいへん)。
日本(にほん)で友達(ともだち)に「~さん、あした誕生日なの?」ときかれたら、まず何も(なにも)考えず(かんがえず)にイエスかノーかを答える(こたえる)と思う(おもう)。
なぜかというと、自分(じぶん)の誕生日だからパーティーをどうするか、ケーキをどうするかなんて考えなくてもいいし、自然な(しぜんな)会話(かいわ)が成り立つ(なりたつ)から。
ところが、ここマナウス(どうやらブラジル全国(ぜんこく))では誕生日の本人(ほんにん)がケーキを持って(もって)ほかの人(ひと)にもてなすのが普通(ふつう)だったりする。
というわけで、「あしたは私(わたし)の誕生日。」とブラジル人にいうと、「おめでとう。じゃぁ、あしたはケーキが食べられる(たべられる)んだ。」といった会話(かいわ)になる場合(ばあい)が多い(おおい)。
もちろん授業(じゅぎょう)でも同じ(おなじ)。
生徒(せいと)がクラスの友達にむかって、「来週(らいしゅう)はぼくの誕生日だから、プレゼントよろしくー。」なんてきまって言うと(いうと)、「じゃぁ、ケーキがあるんだね。」という答えになる。
日本では誕生会をするとなると、もちろん本人がケーキやごちそうを準備(じゅんび)して、友だちなどをよぶが、友達がしてくれることもある。
ここの子どもがする誕生会は色々な(いろいろな)かたちのものがあるが、日本では考えられないほど豪華な(ごうかな)誕生会を普通(ふつう)にしてしまう家庭(かてい)も少なく(すくなく)ない。
誕生会にきてくれたお客(きゃく)さんに自由(じゆう)にとってもらう |
特に(とくに)女の子(おんなのこ)の15歳の誕生日は大人(おとな)への仲間入り(なかまいり)できる年令(ねんれい)として、お父さん(おとうさん)と一緒(いっしょ)にワルツを踊り(おどり)社交(しゃこう)デビューするという習慣(しゅうかん)があるので、パーティーが結婚披露宴(けっこうひろうえん)なみのことも多い。
中(なか)にはそういうパーティーをしないで、その分の費用(ひよう)を旅行(りょこう)にあてる人もいる。
いずれにせよ、立派(りっぱ)な誕生会をしようと思う(おもう)と、結構(けっこう)大変(たいへん)。
カップケーキまでキャラクター… |
2012年8月2日木曜日
完全(かんぜん)と完璧(かんぺき)のちがい
先日(せんじつ)またまたチアゴ先生(せんせい)からいい質問(しつもん)が。
「完全(かんぜん)」と「完璧(かんぺき)」のちがいは何(なん)ですか。
はい、はいそれは…とポルトガル語(ご)に訳(やく)してみると、彼(かれ)が言った(いった)とおり、同じ(おなじ)訳になってしまう…。
勉強(べんきょう)しているな~、チアゴ先生。
というわけで、また例文(れいぶん)を考える(かんがえる)ところから始めた(はじめた)。
「完全」を使った(つかった)例文(れいぶん)
1.完全に解決(かいけつ)できるまで、帰らないで(かえらないで)ください。
2.プレゼントのことは完全にわすれている。
3.この服(ふく)が完全に乾く(かわく)まで、ここに干して(ほして)おいてください。
4.完全燃焼(かんぜんねんしょう)
「完璧」を使った例文
1.あなたの日本語(にほんご)は完璧です。
2.(できあがった作品(さくひん)をみて)完璧だ。
3.彼は仕事(しごと)を完璧にこなす。
他(ほか)にも色々(いろいろ)と例文を考えて(かんがえて)みたところ、次(つぎ)のような結論(けつろん)にたどりついた。
「完全」も「完璧」も「文句(もんく)をいう必要(ひつよう)がないくらい」の意味(いみ)があるが、「完全」にはもっと広い(ひろい)意味がある。
完全には他に「全体(ぜんたい)」、「全部(ぜんぶ)」、「健全さ(けんぜんさ)」の意味もある。
特(とく)に、「完全に」には「すっかり」、「全く(まったく)」の意味があるが、「完璧に」にはこの意味がないので、同じように使うことはできない。
これに対して(たいして)「完璧に」は「欠けて(かけて)いるものが全くない」という意味が強い(つよい)。
また、「完全」はいつも「完全な」、「完全に」のように形容詞(けいようし)か副詞(ふくし)のかたちで使うか、「完全無欠(むけつ)」、「完全試合(じあい)」のように、他のことばをつけて使う。
しかし、「完璧」は他のことばをつけて使うことができないし、「完璧だ。」のように「~な」、「~に」をつけないで使うこともできる。
私がたどりついた答え(こたえ)は以上(いじょう)。
日本語学習者(がくしゅうしゃ)は勉強すればするほど、色々な疑問(ぎもん)がわいてくる。私たち日本人は子どものころから慣れた(なれた)感覚(かんかく)で日本語を使っているので、ちょっとしたニュアンスのちがいがわかる。
でも、日本に住まない(すまないで)、限られた(かぎられた)時間(じかん)で、日本語を勉強している人にとっては、このちょっとしたニュアンスのちがいがとても大事(だいじ)になってくる。
今回(こんかい)のチアゴ先生の質問もとってもいい勉強になった。私も一生懸命(いっしょうけんめい)勉強しないと。
「完全(かんぜん)」と「完璧(かんぺき)」のちがいは何(なん)ですか。
はい、はいそれは…とポルトガル語(ご)に訳(やく)してみると、彼(かれ)が言った(いった)とおり、同じ(おなじ)訳になってしまう…。
勉強(べんきょう)しているな~、チアゴ先生。
というわけで、また例文(れいぶん)を考える(かんがえる)ところから始めた(はじめた)。
「完全」を使った(つかった)例文(れいぶん)
1.完全に解決(かいけつ)できるまで、帰らないで(かえらないで)ください。
2.プレゼントのことは完全にわすれている。
3.この服(ふく)が完全に乾く(かわく)まで、ここに干して(ほして)おいてください。
4.完全燃焼(かんぜんねんしょう)
「完璧」を使った例文
1.あなたの日本語(にほんご)は完璧です。
2.(できあがった作品(さくひん)をみて)完璧だ。
3.彼は仕事(しごと)を完璧にこなす。
他(ほか)にも色々(いろいろ)と例文を考えて(かんがえて)みたところ、次(つぎ)のような結論(けつろん)にたどりついた。
「完全」も「完璧」も「文句(もんく)をいう必要(ひつよう)がないくらい」の意味(いみ)があるが、「完全」にはもっと広い(ひろい)意味がある。
完全には他に「全体(ぜんたい)」、「全部(ぜんぶ)」、「健全さ(けんぜんさ)」の意味もある。
特(とく)に、「完全に」には「すっかり」、「全く(まったく)」の意味があるが、「完璧に」にはこの意味がないので、同じように使うことはできない。
これに対して(たいして)「完璧に」は「欠けて(かけて)いるものが全くない」という意味が強い(つよい)。
また、「完全」はいつも「完全な」、「完全に」のように形容詞(けいようし)か副詞(ふくし)のかたちで使うか、「完全無欠(むけつ)」、「完全試合(じあい)」のように、他のことばをつけて使う。
しかし、「完璧」は他のことばをつけて使うことができないし、「完璧だ。」のように「~な」、「~に」をつけないで使うこともできる。
私がたどりついた答え(こたえ)は以上(いじょう)。
日本語学習者(がくしゅうしゃ)は勉強すればするほど、色々な疑問(ぎもん)がわいてくる。私たち日本人は子どものころから慣れた(なれた)感覚(かんかく)で日本語を使っているので、ちょっとしたニュアンスのちがいがわかる。
でも、日本に住まない(すまないで)、限られた(かぎられた)時間(じかん)で、日本語を勉強している人にとっては、このちょっとしたニュアンスのちがいがとても大事(だいじ)になってくる。
今回(こんかい)のチアゴ先生の質問もとってもいい勉強になった。私も一生懸命(いっしょうけんめい)勉強しないと。
登録:
投稿 (Atom)