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2014年9月27日土曜日

日本語(にほんご)スピーチコンテスト2014!

今年(ことし)も日本語(にほんご)お話大会(おはなしたいかい)と弁論大会(べんろんたいかい)が開かれた(ひらかれた)。

今年のお話大会は日伯協会(にっぱくきょうかい)から参加(さんか)する生徒(せいと)もふえて、一安心(ひとあんしん)。でも、反対に(はんたいに)弁論大会の参加者が年々(ねんねん)少なく(すくなく)なっていくのが気(き)になる。

私(わたし)のクラスの子どもたちは3月(がつ)から準備(じゅんび)を始めた(はじめた)。作文(さくぶん)を考え(かんがえ)て、何度も(なんども)練り直して(ねりなおして)、やっとできあがったのが6月だった。

私の目的(もくてき)は子どもたちに人前(ひとまえ)で話すことになれてもらうこと。ポルトガル語(ご)では緊張(きんちょう)しない子でも、日本語でスピーチとなると状況(じょうきょう)がちがってくる。 内容(ないよう)はどうでもいい、というわけではないが、とにかく目的が目的なので、あまり難しい(むずかしい)ものにはしないようにする。原稿(げんこう)を見て話すのはダメ。とにかく頭(あたま)にたたきこんで、はっきりと、自信(じしん)をもって話してもらう。


これがお話大会のまず第一歩(だいいっぽ)だと私はかんがえている。結果(けっか)がでれば、子どもたちはよろこびを感じる(かんじる)し、よろこびを感じたら、きっと続けて(つづけて)くれるにちがいないと思っている。

がんばったかいがあって、クラス全員(ぜんいん)が入賞(にゅうしょう)してくれた。みんな本当に(ほんとうに)うれしそうだった。


でも、やはり弁論大会の参加者がへっていることが、とても気になる。参加者が11人以上(いじょう)だと、全国(ぜんこく)大会への出場者(しゅつじょうしゃ)を二人(ふたり)えらぶことができるが、今年は参加者が10人にしかならなかったので、一人(ひとり)しかおくることができない。

これは私がここで教え(おしえ)はじめてから、はじめてのことだと思う。

私が大人のクラスを担当(たんとう)していたころは、毎年(まいとし)、参加希望者(きぼうしゃ)がいないかをきいた。どうしても希望者が見つからないときは、スピーチができそうなコンディションの生徒を私が選び(えらび)、本人(ほんにん)にOKしてもらって、作文にとりかかるようにしていた。できあがった原稿をもとに2ヵ月(にかげつ)かけて、イントネーションも顔(かお)の表情(ひょうじょう)も集中的(しゅうちゅうてき)に指導(しどう)し、すべてカンペキにちかいものにした。スピーチをするときに原稿を見るのはタブーと教え、話しかたが自然(しぜん)になるように、いつも心がけた。教えるがわにとっても、それはふつうのことだったし、どの先生も同じように指導していた。

これくらい時間をかけて、愛情(あいじょう)をこめて指導をした生徒は例外なく(れいがいなく)全国(ぜんこく)大会へ出場し、全国大会でも優秀な(ゆうしゅうな)成績(せいせき)をのこしてくれた。私は何度(なんど)か生徒のつきそいで全国大会へ行かせてもらったが、ほかの州(しゅう)の先生から「マナウスの生徒さんはとても優秀ですね。」とほめられると鼻高々(はなたかだか)だったし、その生徒の成果(せいか)をみるのが、なによりの楽しみ(たのしみ)だった。

でも、最近はあまり時間をかけて 指導する先生がいないらしい。生徒を誘って(さそって)、「いっしょにやってみようよ!!」というほど、スピーチの指導に魅力(みりょく)を感じ(かんじ)る先生がいないのかもしれない。

私がスピーチの指導に一生懸命(いっしょうけんめい)になるのは、実(じつ)は、自分(じぶん)の経験(けいけん)があるから。

高校生(こうこうせい)だったときに英語(えいご)の先生から市(し)のスピーチに出るようにすすめられた。(ほとんど強制的(きょうせいてき)に。)先生はアメリカ人だったので、話し方もかなりオーバーにしないとOKが出なかったし、英語の発音(はつおん)も何度も(なんども)何度もなおされた。私にはその少しのちがいが全然(ぜんぜん)わからなかったが、何度も録音(ろくおん)してくれたテープをきいてとにかく練習した。

先生が一生懸命教えてくれたので、私もそれにこたえようと一生懸命がんばった。

結果(けっか)、三位(さんい)内(ない)にはいることができなかったが、何とか特別賞(とくべつしょう)を もらうことができ、とてもうれしかったのをおぼえている。そして、何より、そのあとの大きな(おおきな)自信につながった。先生に直してもらった発音やイントネーションは今でもおぼえているし、フレーズも全部ではないがいまだにおぼえている。

ありがたいことに、あのとき、あの先生から指導してもらったことが、今は私の大きな糧(かて)になっている。

自分が経験したからこそ、生徒にもそのよろこびをあじわってほしいと思うのかもしれない。スピーチはなんの意味(いみ)もないと思っている先生が多い(おおい)らしい。でも、実はスピーチを練習することによって生徒が得る(える)ものはたくさんある。 先生にだってたくさん得るものがある。それをぜひしってもらいたい。

もうおなくなりになった日伯の村山(むらやま)前会長(ぜんかいちょう)のことばをいつも思いだす。

「日本語はね、国語(こくご)っていうものは、とっても大事(だいじ)なんだよ。ことばが乱れる(みだれる)と国(くに)はだめになっちゃうからね。だから、国語の教育(きょういく)はしっかりしなきゃいけない。教育するのはね、子どものうちからなんだよ。だからね、あんた、子どもたちの日本語教育、しっかりやってちょうだい。」

ブラジルの生活(せいかつ)が長くても(ながくても)、日本人としていつも誇り(ほこり)をもっていた村山さんのことばだからこそ、とっても説得力(せっとくりょく)があったし、このことばがあるから、私は子どものクラスの授業を休まず続けている。

でも、今回のスピーチコンテストを見ていると、大人のクラスをまた教え始めたいと思ってしまった。時間(じかん)に余裕(よゆう)を作って(つくって)、また教え始めないと。やっぱり好き(すき)なことはやめられない。

みんな、よくがんばりました!